科学者的な構造的視点と芸術家的な感性的視点の両輪が求められている
新型コロナウィルスで、社会の状況が一変しています。
医療関係者の方々を中心に苦しい状況におられる方も多々いらっしゃるかと思います。
数年前からAIによるシンギュラリティが訪れることが話題となり、
社会的な意識も少しずつ変わりだしました。
人工知能に代替されない仕事とは何か? 人間らしさとは何か?
それでも、古くから染み付いた利権構造や収益モデルにがんじがらめで
革新的に動ける人の数は相対的に少なかったと感じています。
それが、世界的に困難な状況になり、依存している経済や
当たり前に思っていた生活習慣や職場環境だけに依存ができないことに
ようやく腰をあげたのが昨今だと思うのです。
人間は、極限状態になると気付かされるのです。
自分たちが表層的に考え、深淵で捉えていなかった本質的な智を。
教育業界でも、課題を見つけて、問いを立てて、個々人が納得できる解を紡いでいく
探究学習が広がりを始めております。
単に暗記をするだけ、テストで良い点を出すだけの勉強は、
実学として伴わないことに、ようやく社会全体で気付き始めているわけです。
ですが、先駆的に動いている人たちは、すでにそれに取り組んで、
イノベーションを巻き起こしているのです。
松下幸之助さん、スティーブ・ジョブズさん、本田宗一郎さん、……
その方々に共通するのは、
科学者と芸術家の持つ視点の融合、
すなわち、
構造的視点と感性的視点を共に備えているということです。
構造的視点
物事を細部に分解して、どのような構成で製品やサービスができているかを精緻的に解析して、それを論理的に組み立てられる視点です。
単に組み立てるのではなく、その成果物か感性した際に、
如何に生活者が生活に密接して機能的かつ利便的に、そして永続的に愛着を持って使えるかを緻密にデザインをすることができる力だと考えます。
一方方向の考えの押し付けではなく、あくまでも生活者により沿ったマーケットインができる力です。
感性的視点
細部にとらわれず、製品やサービスをメタ認知、すなわち俯瞰して捉えながら、生活者を取り巻く文化・歴史に如何にそれが解け込むかを感覚的に表現できる力です。自己満足のデザインではなく、そこには社会的なコンテクストや制作者のフィロソフィー、そして、生活者がこれがあることで自分らしくあれるという一体感やエンゲージメントを自然と創発していけるような母性的な愛がひつ等です。
平成初期の既存の初等中等教育では、この考え方はほとんどありませんでした。
ゆとり教育の変遷を経て、思考力や判断力が大切だと言われるようになり、
構造的な視点が広がりだしました。
それは大学に行けば、研究者が必ずと言っていいほど通る道なはずなのに、
高校までにそれを経ていないために、大学に入った途端に脱落者が多数でるというのは、
このような原因があります。
そして、感性的視点を重視できる学校は、数が限られています。
日本の大学においては、まだまだこの感性的視点を捉えた科学者というのは、
とても少ないのではないでしょうか。
(芸術系の大学では、無論感性的視点がベースであるので、逆に科学的視点がこれから求められているのです)
今までのように、文系・理系・芸術や家庭などのカテゴライズを持って
進路選択をするのは、大変ナンセンスです。
上記のように、社会の実情との乖離があまりに大きい。
でも、それを声高らかに発言できる人がまだ、少ないのだと思うのです。
視点を磨くというのは、同じ分野だけではダメで、
違う分野を知ることによって、主となる専門が磨かれていきます。
立ち上がろう、学生、そして社会人たちよ。
可能性を自分たちで狭めてはいけない。
可能性は、内なる自分が誰しも必ず持っているものなのだから!
医療関係者の方々を中心に苦しい状況におられる方も多々いらっしゃるかと思います。
数年前からAIによるシンギュラリティが訪れることが話題となり、
社会的な意識も少しずつ変わりだしました。
人工知能に代替されない仕事とは何か? 人間らしさとは何か?
それでも、古くから染み付いた利権構造や収益モデルにがんじがらめで
革新的に動ける人の数は相対的に少なかったと感じています。
それが、世界的に困難な状況になり、依存している経済や
当たり前に思っていた生活習慣や職場環境だけに依存ができないことに
ようやく腰をあげたのが昨今だと思うのです。
人間は、極限状態になると気付かされるのです。
自分たちが表層的に考え、深淵で捉えていなかった本質的な智を。
教育業界でも、課題を見つけて、問いを立てて、個々人が納得できる解を紡いでいく
探究学習が広がりを始めております。
単に暗記をするだけ、テストで良い点を出すだけの勉強は、
実学として伴わないことに、ようやく社会全体で気付き始めているわけです。
ですが、先駆的に動いている人たちは、すでにそれに取り組んで、
イノベーションを巻き起こしているのです。
松下幸之助さん、スティーブ・ジョブズさん、本田宗一郎さん、……
その方々に共通するのは、
科学者と芸術家の持つ視点の融合、
すなわち、
構造的視点と感性的視点を共に備えているということです。
構造的視点
物事を細部に分解して、どのような構成で製品やサービスができているかを精緻的に解析して、それを論理的に組み立てられる視点です。
単に組み立てるのではなく、その成果物か感性した際に、
如何に生活者が生活に密接して機能的かつ利便的に、そして永続的に愛着を持って使えるかを緻密にデザインをすることができる力だと考えます。
一方方向の考えの押し付けではなく、あくまでも生活者により沿ったマーケットインができる力です。
https://iphone-mania.jp/news-227956/より引用 |
感性的視点
細部にとらわれず、製品やサービスをメタ認知、すなわち俯瞰して捉えながら、生活者を取り巻く文化・歴史に如何にそれが解け込むかを感覚的に表現できる力です。自己満足のデザインではなく、そこには社会的なコンテクストや制作者のフィロソフィー、そして、生活者がこれがあることで自分らしくあれるという一体感やエンゲージメントを自然と創発していけるような母性的な愛がひつ等です。
平成初期の既存の初等中等教育では、この考え方はほとんどありませんでした。
ゆとり教育の変遷を経て、思考力や判断力が大切だと言われるようになり、
構造的な視点が広がりだしました。
それは大学に行けば、研究者が必ずと言っていいほど通る道なはずなのに、
高校までにそれを経ていないために、大学に入った途端に脱落者が多数でるというのは、
このような原因があります。
そして、感性的視点を重視できる学校は、数が限られています。
日本の大学においては、まだまだこの感性的視点を捉えた科学者というのは、
とても少ないのではないでしょうか。
(芸術系の大学では、無論感性的視点がベースであるので、逆に科学的視点がこれから求められているのです)
今までのように、文系・理系・芸術や家庭などのカテゴライズを持って
進路選択をするのは、大変ナンセンスです。
上記のように、社会の実情との乖離があまりに大きい。
でも、それを声高らかに発言できる人がまだ、少ないのだと思うのです。
視点を磨くというのは、同じ分野だけではダメで、
違う分野を知ることによって、主となる専門が磨かれていきます。
立ち上がろう、学生、そして社会人たちよ。
可能性を自分たちで狭めてはいけない。
可能性は、内なる自分が誰しも必ず持っているものなのだから!
コメント
コメントを投稿