現代に求められる人間の資質とは?
如何お過ごしでしょうか。
この数ヶ月で世界全体がコロナ禍において、生活のあり方や仕事の取り組み方に
大きな意識の変化があったのではないのでしょうか。
様々な会合でよく出てくる言葉として、
「コロナによって私たちの意識が変化した」と言う言葉をよく聞きます。
そこで、小生はいつも思うのです。
「小生は『コロナによって』意識は全く変化していないです。
現代社会において、この意識は当たり前だと思っていました」
ということなのです。
例えば、私たちは、東京だと満員電車で窮屈になりながら、
会社勤めされている方が多いと思うのですが、どう考えたって不健康です。
遠隔で済む打ち合わせで交通費や移動時間が抑えられるのに、
どうしてもっと早く、企業で導入ができなかったのか。
しかめっ面でお仕事をしても、それは窮屈なことを自分に強いってしまい、
自分から楽しめない仕事のために、ガンを患ったり自死に至ってしまう、
本末転倒だと思いませんか。
違った視点をお伝えすると、従来の固定観念に縛られていることから、
早く脱却すればいいのにと思っています。
例えば、大学受験も就職も、自分らしく選択ができているのであれば良いのですが、
まだまだ有名大学や有名企業、大資本や年収だけで選択している方が
多いのではないかと統計的に理解しています。
ですが、例えばメガバンクもこれからは、顧客とのやりとりのクラウド化を進め、
人員も大幅に削減されます。
終身雇用、安定、高収入を求めて入社しても、
このような変化において、それは昭和の時代だからあった仕組みであって、
そのことを念頭に会社選びをするのは健全ではないのです。
学校の授業も一人の先生が授業をするというのは不効率です。
残業や多くの労務に終われ、疲弊している声が届いているのは周知の事実だと思います。
そのなかで、同じ授業の内容なら、上手な先生がそれをネットで配信したり、
アプリを活用しながら、児童や学生の各々のペースで学習すれば良いのです。
良質な講義はネットで山ほど簡単に見つけられます。
これからの先生は、体験授業をファシリテーションしたり、
個別で学生たちをフォローアップするチューターのような立ち位置が
標準になっていくのだと思うのです。
このように、今までおかしいと思いながらも、変えられなかったことを
受け入れていくことで、今まで費やしていた労力は、
効果的に違ったタスクに力を使うことができるのです。
どうしてこのような変容が今までできづらかったのか。
それは、私たちの今までの学習観や取り巻く社会との関係性が原因になります。
受け身で勉強してきて、社会との繋がりや自己の志・パッションを見失ったまま、
大人になってしまったがゆえに、主体性やチャレンジ精神を失ってしまっているのです。
社会を自己受容・変容しながら生きるには、
「なぜ」それを行う、「どうして」それと向き合う必要があるのかという
考察をする力、探究する力が必要です。
それが無いと、身近で安易な効率性や、
自分たちの過ぎ去った慣習の産物にしがみついてしまうと思うのです。
そして、大切な視点は、
この世には変わるものと変わらないものの2つに大別ができるということです。
時代が変われば、社会情勢も経済状況も変わります。
外的なものは刻々と変化をしていくのです。
変わらないのは、人間が大切にしていく本質的な心のあり方と対人関係です。
相手との関わり方、限りある命の使い方、幸せな生活のあり方です。
変わりゆくもの:お金や所属、身分=外的なもの
変わらないもの:命の営み、精神性、感謝、感情、思い遣り=内的なもの
今まで私たちは、お金を最優先の主軸として仕事を選択したり、
生活をしたりしていたと思うのです。
ですが、お金というのは、必ず利益を求められます。
経済はそのように回っていきましたが、その利益は、どこまでも続くものなのでしょうか。
バブル時は、金利が3〜6%ありましたが、それは必ず限界があるのです。
でも、その本質を見失い利潤本位に翻弄されたのが日本人がいたのではないでしょうか。
現在の金利や国債の発行量を見ればわかる通りですが、
GDPはいつまでも拡大していくことは不可能なのです。
地球を見ても、人口が70億人を越え、これからまだまだ増加の傾向にある中で、
食料の問題や二酸化炭素の排出等、人間の生活だけではなく、
動物や地球と共存していくという発想が根底に無ければ、
近い将来は、人間も動物も地球も共に共倒れになってしまうのです。
限りあるものには、限界があり、それを循環させていかねばならないのに、
お金という自分たちで決めた表面上の架空の価値に囚われ、
ある程度稼いだら、もっと稼ぎたい、もっと稼ぎたいと際限なく欲求を追い求め、
その結果内的な価値を失ってしまうのだと思います。
社会全体としては、利益の追求を求めるということは、
失っているものが必ずあるのです。
精神的に疲弊する人が続出したり、経済的に所得の低い方にしわ寄せが行ったり、
第一次産業のように自然や生物と向き合っている人たちが困窮する、
など、平等なはずの人間でありながらも、
経済を理由に、追いやられる状況に偏りが大きく生まれてしまうのです。
自由になりたいと思っていたために、お金を稼ごうと思ったはずなのに、
結果として、不自由を生んでしまい、誰かを巡り巡って傷つけたり、
苦しめたりしてしまっているわけです。
昨今、多様性の観点から、LGBTQの認知の促進や障害者の方の雇用、
福祉的な観点では、分煙・禁煙、
産業界では、終身雇用がなくなり、定年時期が延長され、
教育業界でも、アクティブ・ラーニングやキャリア教育が普及してきましたが、
実はそれら取り組みは、昭和の時代からずっと叫ばれていたことであって、
私たちが生き生きとしていく生き方は
30〜40年かけてようやく社会に浸透、実装されていくのです。
負の部分としては、今の国政のあり方や経済資本主義の仕組みは、
30〜40年前の発想がまだまだ残っていて、
それが日本社会の象徴のようになっているだけなのです。
それだけ生活の変容には生活者一人ひとりの意識と連帯感が大切で、
これは現代ではなく、次世代をどう見つめていくかという社会人における責任だと
小生は捉えています。
目先の効率化や利便性に囚われるのは、主体的ではありません。
自分たちが社会課題を発見し、自分ごととして考察を行い、課題解決の手法を
主体的・協働的に実践していく、その挑戦こそが、
私たちが生きていく中で得られるかけがえのない資産だと考えます。
そのため、既存の生活、とりわけ大都市では、
無駄とか面倒臭いと思われがちな行為や発想も
そこには私たちが忘れてしまった価値がある
と捉える発想が重要になってくるのだと考えます。
なので、私たちはコロナがあろうとなかろうと、実は
当たり前の暗黙知をみんなで意識化する形式知にしていき、
内省や検証を常に行なっていく発想や姿勢が必要で、
それが現代社会を生きる上で大切な資質になってくるのだと考えています。
その時に、大切になるのは子どもたちの発想です。
子どもたちは、知らないことが多いゆえにフラットな目線で社会を捉えます。
お金がどうして必要なの?
どうして人を殺してはだめなのか?
人間っていつか死んじゃうの? など。
そこには、大人が忘れてしまった本質的な問いかけがあるわけです。
この哲学的な思考を、大人は決して子どもだからとないがしろにせず、
私たちが忘れてしまった視点だと捉えることが重要です。
人間元来、赤ん坊から始まります。
その時は、人の助けを得ながら、生きているのです。
それがいつしか、大人になると自分でなんでもできてしまうという錯覚を覚えます。
そうすると、傲慢になったり、自己欺瞞になり、
相手を一方的に批判し、圧力や暴力で牛耳ろうとしてしまうわけです。
大切なことは、私たちは、生きる上での大切なことを誰しも体感している。
その感覚は社会に参画すると共に埋もれてしまうがゆえに、
子どもたちと一緒にそれを見つけて、育んでいくという発想なのです。
コロナは大変な脅威ですが、世界全体が待った無しで、
世界全体を見つめた意識が必要であることを訴えかけています。
動きましょう、実践しましょう、そして、仲間と笑い、繋がりを感謝する。
これからの社会は、社会人が学びを楽しみ、日常に感謝し、未来を想像でき、
子どもと大人が、共に育っていく共育を広げていくことが必要だと考えています。
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