古新記(1)
思うことが沢山あるのに、ブログをゆっくり書くことができない。 大学生とか院生だったら、きっとそんな時間は沢山あっただろうに、 今はゆっくりできるのは、深夜過ぎ。 深夜過ぎも編集作業や連絡が続き、なかなか手が空かず、体力も連日は朝まで持たず。 また朝を迎える。情報化社会。 残したい、書き綴りたいことがあるんですが、 今晩は、これから二度目の修論を書くために、論文探し。 可笑しいほど時間が濃密(笑)。 何か負われながら、書きたいことを思い返してます。 多分こうやって、何気ないことを書いているうちに、 書きたかったことをふと思い出すんだと思います。 最近、よく観るのは夢は高校時代のことばかり。 母校は通信簿を100段階で付けるんですが、 定期試験の夢ばかり観ます。追われている夢。 日本にいて思うこと。 自分にとって、日本(多分東京)が居づらいということです。 満員電車を押しのける環境、偏差値重視で大学を目指す考えが多いこと、 陰で誰かを揶揄したり、非難したり。 自分はずっと親との確執があり、学校では同級生と話が合わずいじめられて、 人生というものに悲観してました。 自殺を考えたことが2回あります。 世の中、逃げ場がないと思ったのが、19歳と23歳。 なんとかこの年まで生きてこられました。 人が生きるということは、こんなにも苦しいのかと思っていたのが23歳まで。 今は生かされているのが楽しくて、ありがたくて。 世界中に起こる紛争、対立、 歴史が変われども、茶飯事に起こる不条理。 囲まれている日常は、得てして、当たり前のようで、 当たり前でなかったりします。 人が生きるとは、本来なんなのでしょうか。 お金を稼げば良いのでしょうか。 一流企業に勤めれば安泰なのでしょうか。 家庭を築けば、それで良いのでしょうか。 生きる幸せとは、そもそも何なのかを考える時に、 日常に囲まれた「当たり前」を疑う習慣を私は大切にしております。 人間は一人では生きられません。 他者と繋がりながら生きております。 ですが、身の回りを見つめると、挨拶をしない、自分勝手に共有物を使う、 外でタバコを吸う、満員電車で声をかけないのが当たり前、などなど、 他者との繋がりを意識しない環境を当たり前に思う東京がある