承認欲求を捨てられた人、捨てられない人〜南海キャンディーズ山里亮太さんと議員・丸山穂高氏〜
昨今居た堪れない事件が続いていただけに、
どことなく報道の閉塞感が続いた。
残虐な殺人事件と共に、報道されたのが、議員の丸山穂高氏による
北方領土の恥ずべき発言とロシア少女に対しての卑猥な行為に
胸をとても痛めておりました。
そんな折に、南海キャンディーズの山ちゃんこと山里亮太さんと、
女優の蒼井優さんとのご結婚報道には、とても驚き、そして、微笑ましい気持ちになりました。
今朝、Yahoo!ニュースを見ていたら、素晴らしい文章が書かれていたので、引用をさせていただきます。
(引用:https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190606-00000056-sph-ent&fbclid=IwAR1-dFu2KZaF-cnMHxccjzF9LrgHP5ibkkBtHiqOvSnJyzQhatNn2WEdrV0)
『山里の視点や語り口、芸風は「卑屈」「ひねくれ」と評され、本人もそれをネタにしている。ただ昔と違うのは、今の山里は自分の弱さを知っているということだ。弱いからこそ、他人のつらさも思いやれるし、相手の境遇に思いをはせることができる。しずちゃんのこともよく知る蒼井は、2人の苦しんだ過程ごと、いとおしいと思ったのではないか。弱さを知り、改心したひねくれ男のもとに、最高の幸せが舞い込んだ。(スポーツ報知)』
これを読んで、この記者はとても良い視点に着眼されたと感じた。
まさにアドラー心理学の自己受容感の話だと感じたのだった。
ここで、二人の人物の心のあり方が幸福に繋がるか、社会的に批判されるかを考察していきたいと思います。
ここに出てくる一つのキーワードは、「自己承認欲求」です。
丸山氏の場合は、東大から衆議院議員に当選し、大卒からすぐに政治家を職業にしている。
全ての人とは言わないまでも、高学歴で「先生」と言われる職業に就く方には、
他者との比較の中で、「先生」という身分でしか自分の力量を図れない人がいると感じます。
あくまで全ての人ではないことを前提とします。
医者・弁護士・政治家・教授などの職業の方は、ステータス(社会的優位性)が
高いとされ、高圧的な態度や発言が多かったり、人を見下すような方が多いことは、
身の回りを振り返ってみて、思い返すことはないでしょうか。
以前も政治家で、「バカ・ハゲ」などの暴言を吐いた議員がおりますが、
やはり高学歴からすぐに衆議院議員になっています。
こういう方は、「自己顕示欲=マウンティング」でしか、
自分の存在を維持することができないのだと思います。
これは、自身の経験談からも、
実際に自分ごととしてお伝えしておきたいと思っております。
小生は、小さい頃から学歴社会で、やれ開成を目指せ、東大を目指せと
偏差値教育どっぷりな人間だったのです。
ですから、東大を落ちた瞬間に自分の存在意義を無くして、自殺を考えたのです。
そこから少しずつ社交性を取り戻していきましたが、
当時の自分は本当に大変な人間でした。
相手を身分や肩書き、有名かどうか、などで物事を推し量り、
自分のことを高く見せようと自慢する、
それでしか、自分を保てなかった当時の自分は、
まさに失態を行なっている議員と変わりが無かったのです。
自分の場合は、幸運なことに、
・19歳の時に出会ったネットの仲間たち、
・23歳の時に入った映画の現場
・そして、25歳で入学したデジタルハリウッド
が、自己承認欲求だらけの自分の殻を少しずつ剥がしてくれたのでした。
それらで出会った環境や仲間たちに共通することは、
「バックグラウンドは重視しない、
今、自分がどういう自分でありたくて、
何をアクションするかを大切にしている」
ということでした。
自分だけでひたすら勉強をしてきて、他人よりも高い成績を取り、優位に立つことが大切だった自分の価値観を変えてくれた存在だったのでした。
この自己優位性、アドラー心理学では、優越コンプレックスと言いますが、
現代社会の一つの問題だと思っております。
昭和の時代から平成を経て、令和になり、多様性やダイバシティが注目される中、
個人のあり方が、優越コンプレックスに浸っているばかりでは、
多様性やダイバシティも言葉で発するだけになるのです。
そんな中、今回の山里さんが蒼井優さんとご結婚されたことは、
まさにこの優越コンプレックスを脱却したことにあるのです。
これを、アドラー心理学では、「自己受容感」と表現しています。
自分の良い部分だけではなく、自分の悪い部分も自分だと受け入れられる姿勢が
大切だとアドラー先生は説いております。
自己受容の反対は、慢心です。
慢心は、自分だけが良い、相手はダメという考え方です。
先にご紹介した暴言や失言のセンセイ方は、慢心と言えるのではないでしょうか。
承認欲求を全て捨てる必要はないと思ってます。
ただ、他人が傷つき、自分も傷つく承認欲求は減らしていく必要があると思います。
すぐに人は変わらないかもしれませんが、
変われるチャンスは自分の心のあり方にあるのではないかと考えます。
一つひとつ、自分の今と社会との現状とを結びつけ、
そこから自分を振り返り、自分の心のあり方を考えるきっかけになれば幸いです。
どことなく報道の閉塞感が続いた。
残虐な殺人事件と共に、報道されたのが、議員の丸山穂高氏による
北方領土の恥ずべき発言とロシア少女に対しての卑猥な行為に
胸をとても痛めておりました。
そんな折に、南海キャンディーズの山ちゃんこと山里亮太さんと、
女優の蒼井優さんとのご結婚報道には、とても驚き、そして、微笑ましい気持ちになりました。
今朝、Yahoo!ニュースを見ていたら、素晴らしい文章が書かれていたので、引用をさせていただきます。
(引用:https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190606-00000056-sph-ent&fbclid=IwAR1-dFu2KZaF-cnMHxccjzF9LrgHP5ibkkBtHiqOvSnJyzQhatNn2WEdrV0)
『山里の視点や語り口、芸風は「卑屈」「ひねくれ」と評され、本人もそれをネタにしている。ただ昔と違うのは、今の山里は自分の弱さを知っているということだ。弱いからこそ、他人のつらさも思いやれるし、相手の境遇に思いをはせることができる。しずちゃんのこともよく知る蒼井は、2人の苦しんだ過程ごと、いとおしいと思ったのではないか。弱さを知り、改心したひねくれ男のもとに、最高の幸せが舞い込んだ。(スポーツ報知)』
これを読んで、この記者はとても良い視点に着眼されたと感じた。
まさにアドラー心理学の自己受容感の話だと感じたのだった。
ここで、二人の人物の心のあり方が幸福に繋がるか、社会的に批判されるかを考察していきたいと思います。
ここに出てくる一つのキーワードは、「自己承認欲求」です。
丸山氏の場合は、東大から衆議院議員に当選し、大卒からすぐに政治家を職業にしている。
全ての人とは言わないまでも、高学歴で「先生」と言われる職業に就く方には、
他者との比較の中で、「先生」という身分でしか自分の力量を図れない人がいると感じます。
あくまで全ての人ではないことを前提とします。
医者・弁護士・政治家・教授などの職業の方は、ステータス(社会的優位性)が
高いとされ、高圧的な態度や発言が多かったり、人を見下すような方が多いことは、
身の回りを振り返ってみて、思い返すことはないでしょうか。
以前も政治家で、「バカ・ハゲ」などの暴言を吐いた議員がおりますが、
やはり高学歴からすぐに衆議院議員になっています。
こういう方は、「自己顕示欲=マウンティング」でしか、
自分の存在を維持することができないのだと思います。
これは、自身の経験談からも、
実際に自分ごととしてお伝えしておきたいと思っております。
小生は、小さい頃から学歴社会で、やれ開成を目指せ、東大を目指せと
偏差値教育どっぷりな人間だったのです。
ですから、東大を落ちた瞬間に自分の存在意義を無くして、自殺を考えたのです。
そこから少しずつ社交性を取り戻していきましたが、
当時の自分は本当に大変な人間でした。
相手を身分や肩書き、有名かどうか、などで物事を推し量り、
自分のことを高く見せようと自慢する、
それでしか、自分を保てなかった当時の自分は、
まさに失態を行なっている議員と変わりが無かったのです。
自分の場合は、幸運なことに、
・19歳の時に出会ったネットの仲間たち、
・23歳の時に入った映画の現場
・そして、25歳で入学したデジタルハリウッド
が、自己承認欲求だらけの自分の殻を少しずつ剥がしてくれたのでした。
それらで出会った環境や仲間たちに共通することは、
「バックグラウンドは重視しない、
今、自分がどういう自分でありたくて、
何をアクションするかを大切にしている」
ということでした。
自分だけでひたすら勉強をしてきて、他人よりも高い成績を取り、優位に立つことが大切だった自分の価値観を変えてくれた存在だったのでした。
この自己優位性、アドラー心理学では、優越コンプレックスと言いますが、
現代社会の一つの問題だと思っております。
昭和の時代から平成を経て、令和になり、多様性やダイバシティが注目される中、
個人のあり方が、優越コンプレックスに浸っているばかりでは、
多様性やダイバシティも言葉で発するだけになるのです。
そんな中、今回の山里さんが蒼井優さんとご結婚されたことは、
まさにこの優越コンプレックスを脱却したことにあるのです。
これを、アドラー心理学では、「自己受容感」と表現しています。
自分の良い部分だけではなく、自分の悪い部分も自分だと受け入れられる姿勢が
大切だとアドラー先生は説いております。
自己受容の反対は、慢心です。
慢心は、自分だけが良い、相手はダメという考え方です。
先にご紹介した暴言や失言のセンセイ方は、慢心と言えるのではないでしょうか。
承認欲求を全て捨てる必要はないと思ってます。
ただ、他人が傷つき、自分も傷つく承認欲求は減らしていく必要があると思います。
すぐに人は変わらないかもしれませんが、
変われるチャンスは自分の心のあり方にあるのではないかと考えます。
一つひとつ、自分の今と社会との現状とを結びつけ、
そこから自分を振り返り、自分の心のあり方を考えるきっかけになれば幸いです。
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