生徒という呼び名をアップグレードさせよ!
お陰様で、小生の初の小説「ノー・ヴォイス」が先週発売されました。
劇場公開から6年経ち、この度晴れて小説となりました。
帯には和光市長の応援メッセージ、末尾には対談が掲載されております。
ぜひ、本作をご一読いただきたいと思っております。
AMAZON:https://amzn.to/2up2sFT
この作品を作るために保健所やアニマルシェルター、獣医師の先生方など、
多数の方々を取材しました。
自分の知らないペット業界の背景も沢山学ぶこととなりました。
この作品に携わるまでは犬の数え方は一匹、二匹だと思っていましたが、
ある時に指摘されました。
「一頭、二頭です」と。
人間が抱えられない大きさの動物や、訓練された盲導犬などは、
人間の生活に密着度が高い存在は頭で数えるとのことでした。
「多頭飼い」に見られるように「頭」で数えると良いと思いますとのご意見。
そんなこと考えたこともありませんでしたが、なるほどなーと考えさせられる経験でした。
(それでも猫は一匹って数えるよなと考えることがありますが^^)
そんな話と繋がっているようで、全く違う話ですが、
学校における「生徒」という表現に関しても、学校教育法で
小学生は児童、中学生・高校生は生徒、大学生は学生と分けられているそうだが、
「徒」は「従う」という意味と同じとのこと。
小学生までは、児童で良いと思うのだが、
小生は、中学生からは、「学生」と呼び方を変えたいと思っている。
生徒と表現している時点で、学校のルールや指導に従う存在という意味が
無意識に定着してしまっている感覚になる。
「勉強する」から「学習する」、
「STUDY」から「LEARN」へと変わる現代の教育の在り方において、
「生徒」という呼び名も「学生」や「ラーナー」
はたまた「HERO」とか「PIONEER」
と斬新に変えるような発想が出てきてもよいのではと感じています。
「うちの学校のHEROは、画期的な探究をしているんですよ」
みたいな会話が出たらワクワクしませんか?^^
当たり前の感覚を違った見方で検討してみる習慣というのは、
自分の視点を磨き、社会に対しても新しい提言や実験を生み出すきっかけになると感じます。
身近な当たり前のちょっとした違和感を、身近な人と考えてみては如何でしょうか。
劇場公開から6年経ち、この度晴れて小説となりました。
帯には和光市長の応援メッセージ、末尾には対談が掲載されております。
ぜひ、本作をご一読いただきたいと思っております。
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この作品を作るために保健所やアニマルシェルター、獣医師の先生方など、
多数の方々を取材しました。
自分の知らないペット業界の背景も沢山学ぶこととなりました。
この作品に携わるまでは犬の数え方は一匹、二匹だと思っていましたが、
ある時に指摘されました。
「一頭、二頭です」と。
人間が抱えられない大きさの動物や、訓練された盲導犬などは、
人間の生活に密着度が高い存在は頭で数えるとのことでした。
「多頭飼い」に見られるように「頭」で数えると良いと思いますとのご意見。
そんなこと考えたこともありませんでしたが、なるほどなーと考えさせられる経験でした。
(それでも猫は一匹って数えるよなと考えることがありますが^^)
そんな話と繋がっているようで、全く違う話ですが、
学校における「生徒」という表現に関しても、学校教育法で
小学生は児童、中学生・高校生は生徒、大学生は学生と分けられているそうだが、
「徒」は「従う」という意味と同じとのこと。
小学生までは、児童で良いと思うのだが、
小生は、中学生からは、「学生」と呼び方を変えたいと思っている。
生徒と表現している時点で、学校のルールや指導に従う存在という意味が
無意識に定着してしまっている感覚になる。
「勉強する」から「学習する」、
「STUDY」から「LEARN」へと変わる現代の教育の在り方において、
「生徒」という呼び名も「学生」や「ラーナー」
はたまた「HERO」とか「PIONEER」
と斬新に変えるような発想が出てきてもよいのではと感じています。
「うちの学校のHEROは、画期的な探究をしているんですよ」
みたいな会話が出たらワクワクしませんか?^^
当たり前の感覚を違った見方で検討してみる習慣というのは、
自分の視点を磨き、社会に対しても新しい提言や実験を生み出すきっかけになると感じます。
身近な当たり前のちょっとした違和感を、身近な人と考えてみては如何でしょうか。
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